鼻をつまみながら通りすぎる人生。または素直になれなかった男としての三島由紀夫

「 私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。

                 (中略)

 自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」という境地になれないものか、われとわが心を疑っている。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、一体、人生を愛するということであるかどうか。

                  (中略)

 二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。

 

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

                 (果たしえていない約束ー私の中の二十五年)

 

 上記は三島由紀夫が死ぬ直前に新聞に投稿した文章です。

 僕はこの文章、特に引用した前半が本当に好きです。うまく言葉に出来ない自分の状態を代弁してくれているような気がするからです。

 

 僕をふくむ少なくない人間にとっての人生とは、「鼻をつまみながらとおりすぎる」もの。

 壊れた車を何とか動かして目的地(死)に到達しさえすればいいと思っている。

 

 「俗に遊ぶ」

 そう、ふつうのひとが、ふつうにたのしむことをたのしみ、

 ふつうのひとが、しあわせだとおもうことを、しあわせだと思えればいいんだ。

 たった、そうするだけで、そんな簡単そうなことができるようになるだけでいい。

 でも、それだけは何があっても、うまくできない。

 

 ふつうのたのしさやしあわせにココロを開くだけでいい。

 でも、ココロを開くということが、なんと難しいことか。

 それらをうけいれることが、なんとむずかしいことか。

 それができないばかりに、ありもしない希望や幻想をあたかもあるがごとく振る舞い、抽象的な想念や概念相手に誰にも頼まれていない苦闘をし続けてきた。まさに、「いつも風車を相手に戦っている」ように。

 「文科系クズ」という言葉があると聞いたことがあります。詳細な定義は知りませんが、僕にとっての文科系クズとは、まさしく上記のような人間です。

 

 三島由紀夫も私が書いたように思っていたかはわからない。というより、上の文章をダシに曲解しているかもしれません。

 ここに記している三島の書いた文章の私の感想は、相当に俗流で俗悪なものに違いない。でも、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」の家族がしあわせと感じることをしあわせだと感じられていれば、大いなる、究極的なロマンへ接近する必要などなかったはずだ。

 

 これは私の人生の課題です。

 みんながたのしいとしていることに、「素直であること」

 みんながしあわせとしていることに、「ココロを開くこと」

 「風車を相手に戦う」ことをやめること。

 そう

 落ち葉を見るがいい 涸れた噴水をめぐること

 平坦な戦場で 僕らが生き延びるということ