気づいたら人生から「たのしさ」を引き出せなくなっている件。

みなさんはこどものころと同じくらい強くたのしいことありますか?

 

自分にはおとなになっても「たのしい」と胸を張って言えている人が本当に信じられない。

 

目の前で「たのしんでいる」様子の人を見かけることはあるけど、本当に「たのしさ」なるものを感じていると信じることが出来ません。

 

私は、思春期ごろから「たのしさ」に背を向けて生きてきた気がします。目標があったからです。

そして、アラサーになってやっとその人生の目標もなくなりました。

つまり、人生を鼻をつまんで通り過ぎるための「いいわけ」がなくなったわけです。

 

そしてはじめて人生を「ゆたかに」「たのしく」生きる必要に直面した。

今まで、無意識に必死で避けてきた、それだけは正しい価値観じゃないと否認していたのに。

 

去年、多少は人生を「たのしもう」と試行錯誤したけれど、途方にくれています。

 

「たのしい」とはどういうことかまったくわからない。

特に、おとなが「たのしむ」とはどういうことをいうのかわからない。

こどものころは知っていたような気がする。でも、いまはそれはない。

 

「たのしむ」ということがこれほど難しいとは、よくわからないものだとは思わなかった。

 

 そんなに「たのしさ」が得られないなら、「たのしさ」なしで生きていけばいいのではないか?これまでとおなじに。

 

今は、そうは思えません。

 

なぜなら、もう、僕は「人生は、時間をかけて掘っていけば、なんかある」とは思えなくなってしまったから。

 

少年ないし、青年前期のころは、素朴にも、人生の核のようなものが、予め決められた「何か意味のあること」と邂逅するのではないか、とぼんやり思っていました。

 

しかし、僕は、きちんとおとなとして、ぼんやりした幻想のようなものに絶望することが出来ます。

 

そして、はじめて、この場所が、「たのしさ」らしきことや、「快楽」らしきことに溢れていることに思い至りました。

 

もう「たのしさ」しかないんだな。それに縋り付いてやり過ごすしかないんだ。

 

そのために「たのしさ」らしきことが溢れているんだ。ほかにやることがないから。

 

「生きる意味がないのなら、みんなはこの砂をかむような日常をどうやって生きてるんだろう?」

 

この問いに答えを与えるような「たのしい」「日常生活」はありうるのでしょうか?

 

というわけで、2015年の抱負は、おとなとして、立派に「たのしさ」を感受できるようなカラダとココロになることです。

 

または生きる苦しみに報いるだけの「たのしさ」があるか確認すること、です。