30台になってもまだ生きる意味が気になる件
「若者のための<死>の倫理学」三谷尚澄著 という本を読んだ。
哲学者が書いた本で「生きる意味」を扱った本は意外に多くない。
その点で、本書は真正面から「生きる意味」扱った稀な本である。
「どうせ辛いことばかりの毎日なのになぜ生き続けなければいけないのか」
その理由を見つけるのが、この本の目的となる。
志やよし。一方で、本書が答えとするものには、とてもがっかりさせられた。
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前半は少しは読みごたえがある。
「生きる意味がない」と感じることは一体どのような事態であるかを語ろうとしている。
近代が始まって以降、語られてきた「生きることの無意味」のまとめという感じがする。
本書では、生きることに対する認識の変化を、
「生きる意味がない」という表現と「存在から重さが消えた」という表現で示している。
両者は近しい概念ではあるが、一緒くたにはできないだろう。
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後半は、前半に述べられた事態にどう対処すべきかが、生きる意味はあるかということを含め、語られている。
それを簡単にまとめれば以下のようになる。
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・生きる意味はない
・すべての事態に用在性(※)を読み込むことが、
生きること、つまり、存在の重みをなくし、生きること自体の意味を考えさせている原因である。
※何かの役に立つ性質
→我々の生活の基盤である用在性を考えることを手放すことはできない。
それを手放さずに以前あった存在の重さを取り戻す方法をとして、以下の3つを提示する。
・子供のように何の役にも立たないことに感動する。
・近しいものの死を悲しむことで、存在の重さを確認することができる。
悲しみから目を逸らさず受け止めることが、存在の重さを感じて生きていくには必要である。
・何かと別れるときに、別れの対象に感じる哀惜を、「生き続ける理由」とすることができる。
(卒業式とか引越しの時の後ろ髪惹かれる感じが、生きてこの世界に居続ける理由、というか動機になるんだって)
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上の3つは今までこういった話題のときに、さんざん語られてきたことで、見るべきものはない。
それに加えて、「生きなくてはいけない理由」として、上記のように本書で語られていることは、弱い。
生きることの圧倒的な苦しみに耐える理由として弱すぎるし、
生きる意味がない、生きることにより甘受する苦しみの意味がないというリアリティーに勝てない。
具体的にいえば、ガンを患っている老人が「生き続けてもしょうがない」と思っていたとして、
これら処方箋は生きる動機とはならないだろう。
大体、下の2つは殆ど著者自身の感じ方の話になっていて、どこまで一般性を期待できるか怪しい。
少なくとも、私はここで提示されていることを取り入れた生き方をすると、
「生きることは無意味」であるという虚しさを解消することはできない。
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最後に愚痴を書かせてもらいたい。
本書は哲学書を装っているが、実体は哲学的レポート、ないし哲学的エッセイである。
前半は先行研究のまとめのようなものとしていいとしても、
後半の著者独自の見解が現れる個所がとても論理的とは言えない記述であるのに驚いた。
「ということができるだろうか」・「そう考えることはできるだろうか?」
著者自身が自信がないのか、そのような語尾が散見される。
本書は「若者のための<死>の倫理学」という書名として、大学生をターゲットとしているようであるが、
この程度のことはこういった分野に興味のある大学生なら既知のことであろう。
私は、本書がそういった学生の手になる、哲学の授業のレポートかと思った。
正直に言うと、一応哲学を講じて生活している人間が、ここまで程度の低い本を書いているのに驚いている。
哲学なんて山ほどオーバードクターがいるであろうから、これが著者の実力なら後進に道を譲るべきだろう。
ウィトゲンシュタインという名のコンパイラ
「語りえないものには沈黙しなければならない」
ちょっと人文系に興味のある人なら必ず聞いたことがあるこの言葉。
そう、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」の末尾にしたためた言葉です。
ウィトゲンシュタインは哲学の問題は「言葉の誤用」から生じているとしました。
たとえば、「ろうそくの火は消えた後、どこにいくのか」という「問題」。
これが「言葉の誤用」から生じているナンセンスな文章であるダケ、というのは見やすいでしょう。
ですが、「生きることに意味はあるか」だとか「善悪とは何か」といった一見有意義に見える、「問い」が、「言葉の誤用」であると示すのは容易ではないでしょう。
ウィトゲンシュタインは哲学者の仕事を、次のようにしました。
すなわち、「言葉の誤用」から生じている、実はナンセンスな「有意味な装いを持った文」が、無意味であること。そう、語りえないものを語りえないと示すこと。
さて、私はSEを業としているのですが、PHPのような「おせっかいな」言語でしばらく仕事をしていて、そのあとにC++のような「おせっかいでない」言語で仕事をするなんてことがままあります。
そんなときには、なんて「おせっかいな」言語が勝手に沈黙してくれる言語であるのかと感じ入られずにはいられません。
C++はよりコンピュータに近く、細かいとこまで言語でコンピュータに指示を出せるけれど、指示の責任は言語使用者に大きく負託されています。たとえば、実体のない対象を名指す名詞(NULL POINTER!)なんてのもつくれる。
対してPHPはコンピュータに相対的に遠く、細かいとこの指示はできません。ですが、できないことには、「できない」と言ってくれたり、そもそも「選択肢」すらなかったりする。
ここで、私が「おせっかい」を「言葉の誤用の指摘」に見立てているのはわかりやすいでしょう。つまり、こんなふうな妄想をしてしまう、ということです。
○語りえないことに沈黙させる度合い
小<------------------------------------------------------>大
自然言語 より低級な言語 より高級な言語
プログラムを実行する前に、「言葉の誤用」をチェック(も)してくれるソフトをコンパイラといいます。
ここで、私は人間の言葉(自然言語)にも「言葉の誤用」をチェックするコンパイラがあったらな、なんて思うわけです。そんなものがあれば、人間がそのために生の大部分を費やす大いなる勘違いを削減できる。
というわけで、ウィトゲンシュタインのコンパイラなんてテーマをつけました。
でも、そんなコンパイラがないのは明白で、というのは「言葉の正しい用法」なるものがなんなのかわからないからです。
たとえば、隠喩は「言葉の正しい用法」という観点からどう考えるべきなのか。
隠喩や詩的言語といったものがわれわれの生を彩る多くの物(というか、その中心)を形作っているように思われる。
きっとそんなコンパイラが普及して共同幻想の醒めた世界は、ラカンが「命の(またはリアルの)しかめっ面」といったような場所なんだろうな。
鼻をつまみながら通りすぎる人生。または素直になれなかった男としての三島由紀夫
「 私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
(中略)
自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」という境地になれないものか、われとわが心を疑っている。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、一体、人生を愛するということであるかどうか。
(中略)
二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」
(果たしえていない約束ー私の中の二十五年)
上記は三島由紀夫が死ぬ直前に新聞に投稿した文章です。
僕はこの文章、特に引用した前半が本当に好きです。うまく言葉に出来ない自分の状態を代弁してくれているような気がするからです。
僕をふくむ少なくない人間にとっての人生とは、「鼻をつまみながらとおりすぎる」もの。
壊れた車を何とか動かして目的地(死)に到達しさえすればいいと思っている。
「俗に遊ぶ」
そう、ふつうのひとが、ふつうにたのしむことをたのしみ、
ふつうのひとが、しあわせだとおもうことを、しあわせだと思えればいいんだ。
たった、そうするだけで、そんな簡単そうなことができるようになるだけでいい。
でも、それだけは何があっても、うまくできない。
ふつうのたのしさやしあわせにココロを開くだけでいい。
でも、ココロを開くということが、なんと難しいことか。
それらをうけいれることが、なんとむずかしいことか。
それができないばかりに、ありもしない希望や幻想をあたかもあるがごとく振る舞い、抽象的な想念や概念相手に誰にも頼まれていない苦闘をし続けてきた。まさに、「いつも風車を相手に戦っている」ように。
「文科系クズ」という言葉があると聞いたことがあります。詳細な定義は知りませんが、僕にとっての文科系クズとは、まさしく上記のような人間です。
三島由紀夫も私が書いたように思っていたかはわからない。というより、上の文章をダシに曲解しているかもしれません。
ここに記している三島の書いた文章の私の感想は、相当に俗流で俗悪なものに違いない。でも、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」の家族がしあわせと感じることをしあわせだと感じられていれば、大いなる、究極的なロマンへ接近する必要などなかったはずだ。
これは私の人生の課題です。
みんながたのしいとしていることに、「素直であること」
みんながしあわせとしていることに、「ココロを開くこと」
「風車を相手に戦う」ことをやめること。
そう
落ち葉を見るがいい 涸れた噴水をめぐること
平坦な戦場で 僕らが生き延びるということ
気づいたら人生から「たのしさ」を引き出せなくなっている件。
みなさんはこどものころと同じくらい強くたのしいことありますか?
自分にはおとなになっても「たのしい」と胸を張って言えている人が本当に信じられない。
目の前で「たのしんでいる」様子の人を見かけることはあるけど、本当に「たのしさ」なるものを感じていると信じることが出来ません。
私は、思春期ごろから「たのしさ」に背を向けて生きてきた気がします。目標があったからです。
そして、アラサーになってやっとその人生の目標もなくなりました。
つまり、人生を鼻をつまんで通り過ぎるための「いいわけ」がなくなったわけです。
そしてはじめて人生を「ゆたかに」「たのしく」生きる必要に直面した。
今まで、無意識に必死で避けてきた、それだけは正しい価値観じゃないと否認していたのに。
去年、多少は人生を「たのしもう」と試行錯誤したけれど、途方にくれています。
「たのしい」とはどういうことかまったくわからない。
特に、おとなが「たのしむ」とはどういうことをいうのかわからない。
こどものころは知っていたような気がする。でも、いまはそれはない。
「たのしむ」ということがこれほど難しいとは、よくわからないものだとは思わなかった。
そんなに「たのしさ」が得られないなら、「たのしさ」なしで生きていけばいいのではないか?これまでとおなじに。
今は、そうは思えません。
なぜなら、もう、僕は「人生は、時間をかけて掘っていけば、なんかある」とは思えなくなってしまったから。
少年ないし、青年前期のころは、素朴にも、人生の核のようなものが、予め決められた「何か意味のあること」と邂逅するのではないか、とぼんやり思っていました。
しかし、僕は、きちんとおとなとして、ぼんやりした幻想のようなものに絶望することが出来ます。
そして、はじめて、この場所が、「たのしさ」らしきことや、「快楽」らしきことに溢れていることに思い至りました。
もう「たのしさ」しかないんだな。それに縋り付いてやり過ごすしかないんだ。
そのために「たのしさ」らしきことが溢れているんだ。ほかにやることがないから。
「生きる意味がないのなら、みんなはこの砂をかむような日常をどうやって生きてるんだろう?」
この問いに答えを与えるような「たのしい」「日常生活」はありうるのでしょうか?
というわけで、2015年の抱負は、おとなとして、立派に「たのしさ」を感受できるようなカラダとココロになることです。
または生きる苦しみに報いるだけの「たのしさ」があるか確認すること、です。